宮治のこと

2019年1月21日

最終更新:2022年5月19日

宮治の自分史【中学生~高校生(前半)編】#02

「こんな人生歩んできました」と自己紹介を兼ねてスタートした「宮治の自分史シリーズ」。

連載2回目となる今回は、私の暗黒時代を含む「中学生~高校生(前半)のエピソード」をご紹介します。

★参考情報:「宮治の自分史」シリーズの記事一覧

松本から故郷の札幌へ

父の転勤で、小学6年生から中学2年生までを長野県松本市で過ごした私は、中学3年生で札幌に戻ることになりました。

「住めば都」とよく言いますが、3年経ってすっかり松本に馴染んでいたこともあり、札幌に戻ると決まった時は嬉しい気持ちが全く湧かなかったことを鮮明に覚えています。

勉強はあまり得意ではありませんでしたが、部活動(陸上部)と友達と遊ぶことを楽しみに過ごせていたことも理由のひとつです。

(余談ですが、大人になってから「陸上部だった」という話を95%の確率で信じてもらえません……笑)

あと、小学校も最後の1年で転校していることもあり「中学校はそのまま松本の中学校を卒業できたらいいな」と思っていたので、「また最後の1年だけ違う学校に通うのか」と気が重たくもなりました。

ただ、札幌は大好きな街ですし、故郷です。

ずっと松本にいたいなと思いながらも、いずれ札幌に帰ることははじめからわかっていたことなので、何だかんだ言っても札幌に帰ってきたら思ったよりもスムーズに気持ちの整理はできました。

転校してすぐに受けた学力テストの結果を見るまでは……。

高校生になれないかもしれない問題勃発

「このままでは公立高校は無理だね」

「私立高校も限られるだろうから受験は相当厳しいね」

転校してはじめて受けた学力テストの散々たる結果を見て、先生に鼻で笑われながら言われました。

特に理科が致命的で、60点満点中、6点。

10%の正答率。

しかもわからなくて適当に丸をつけた選択問題がたまたま合っていただけの6点です。

勉強に力を入れていなかったにしても、ここまで悲惨な状況だとは思っていなかったので、本当にショックでした。

そしてショックとともに、鼻で笑った先生の顔が浮かんできて、自分でも感じたことがない感情が芽生えてきた時のことを今でもたまに思い出します。

根拠も自信も皆無でしたが、「絶対見返してやる!」と完全に戦闘モードに突入です。

そこから「この1年はとにかく勉強に集中しよう」と決意し、あえて私は学区外の塾を選びました。

「学区内の塾よりも家から近い」という理由もありますが、何より誰も私を知らない環境で勉強に集中したいと考えたのです。

塾に行かせてくれた両親も賛成し、応援してくれたのが何より励みになりました。

「私って、本当に勉強できないんだな……」と実感してからは、すっかり自信を失い、学校ではあまり積極的な行動ができなくなっていた私。

「感情が行動に影響する」と小学生の時に大長縄飛びの経験で実感していたので、環境を変えれば、きっと感情も変わるし、行動できるようになると考え、学区外の塾を選びました。

私のことを誰も知らない環境なら、第一印象から「この人は勉強できない人」なので、それ以上自信を失うことはありません。

できることを増やして「思ったよりこの人は勉強できる人」になればいいだけです。

こう思えるようになってからは、とても気が楽になり勉強に集中できました。

結果として、公立・私立ともに志望校に合格。

「どうして高校に行きたかったのか」と聞かれたら、「『中学を卒業したら高校生になる』ことが当然だと思っていて、何の疑問も持っていなかったから」としか答えられないのですが、合格は合格です。

無事に高校生になれたことの嬉しさ(というより安堵感)は、今でもはっきり覚えています。

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▲単語帳も作っていたのですが、小さいスペースに文字を書くことが苦手ですぐに挫折。(私の字が大きすぎるから……笑)自分専用の問題集を作ろうと、ノートのページを真ん中から半分に折って、左側に質問を、右側に答えを書いてひたすら解きまくりました。大人になってからも基本このスタイルで勉強しています。

燃え尽き症候群と言われはじめる

念願の高校生になって、どんな高校生活を送ろうとわくわくしていた気持ちもある反面、正直どこか心のダルさも感じていました。

友達もすぐできましたし、理不尽な先生も先輩もいない。

学校の授業もめちゃめちゃできるわけではないけれど、全くわからない状態ではない。

でも、心が疲れ切っているとはっきりわかりました。

やらなければいけないことはちゃんとやりましたが、プラスαで何かやることを心が全力で拒否。

明日何やりたいかすらよくわからないので、目の前のもの、とにかく目先のことだけこなす毎日でした。

何人もの人に「高校受験の燃え尽き症候群じゃない?」と言われましたが、朝も起きれるし、学校には行けているし、会話も苦じゃないし、睡眠もとれている。

勉強以外の遊びとか趣味はとことん楽しめている。

こんな状況だったのであまり深く考えていませんでした。

ただ、ダラダラ何となく過ごしながら半年くらい経ってくると、言葉で表現できない焦りを感じ始めてきた時は言葉で表現できないほど怖かったです。

そして、2年生からの進路別のクラス分けをきっかけに友達が進路を考え始め、自分の進路を聞かれることが増えてからは、漠然とした焦りがより鮮明なものになっていきました。

明日のこともよくわからない私に「将来何をしたいのか」と聞かれても、本当に困って途方に暮れてしまったことを覚えています。

それでも何とか考えると、札幌の小学校のクラブ活動で手話や点字をやっていたことを思い出し、「福祉関係の仕事には興味を持っていたな」と気づきました。

ただ「生涯の仕事にしたいか」と聞かれると、福祉関係の仕事に限ったことではなく、根本的に「働く」ということに関して全くイメージが湧かず堂々巡り……。

そんな焦りを感じながら何も前進することがなかった高校1年の秋、ある先生がテスト前に私に話しかけてきました。

入学当初、意欲的になれない私に「燃え尽き症候群じゃないのか?3か月くらいはゆっくり休むのもいいかもね」と声をかけてくれた先生です。

ただ、今回は真逆の話でした。

「いつまで休んでいるんだ。」

「お前はやればできるんだから、1度でいいし、1科目だけでいいから、これ以上勉強することないって思えるくらい必死に勉強してみなさい。」

確かに以前ゆっくり休めと言ってくれた期間は3か月過ぎていました。

ただ「私のことは何でもお見通し」と言わんばかりの自信満々なドヤ顔で言われたことに対し、「私の何を知ってんの?」と嫌悪感すら芽生えたのが正直な気持ちです。

「やればできる」って言ってるけど、自分ではやらないとできないと自覚があるのに、何でわざわざ言ってきたのか。

他のクラスメイトもたくさんいたのに、なんで私にだけ言ってきたのか。

そもそも赤点も取っていないし、赤点スレスレでもない。

むしろ他の科目に比べると平均以上の順位に入っていたし、その先生の担当科目は、私の中では得意科目でもある。

色々考えていくうちに、段々腹立たしくなってきました。

その日は宿題すらやる気が起きず、そのまま放置。

(放置したものの、翌朝早起きして宿題やる。基本小心者です。)

翌日になっても腹立たしさが消えていなかったのか、友達から「機嫌が悪い」と指摘され、やっと我に返りました。

「先生の言葉を無視して、今までと変わらず過ごそう」と決めていたのに「機嫌が悪い」空気を出しているということは、全然無視できてないじゃないかと。

そこで「先生の言葉を冷静に受け止めよう」と思い直し、自分の感情と向き合ってみることにしました。

その時一番私が向き合う必要があったのが「なぜ先生の話がウザいと思ったか」ということです。

言われた時は感情的になってしまい、全く気づきませんでしたが、冷静なるとその答えは簡単に出てきました。

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▲まわりから「燃え尽き症候群」と言われていた時期は、家のソファーでゴロゴロしているか、学校近くの商業施設で遊んでいるかのどちらかでした。楽しく遊んでいましたし、勉強以外の興味は本当にあったので、「燃え尽き症候群」というよりも単純に勉強が面倒だっただけだと思っています。

努力=諦めずにやり続けること

「なぜ先生の話がウザいと思ったのか」

答えはただひとつ。

「言われなくても分かっている」という反発心でした

自分でも「いつまでも休んでいる」ことは十分自覚をしていたんですよね。

明確な目標とか目的はみつかってないものの「テストで100点取るとかでもいいから、それ目指して勉強したら何か変わってくるかも?」って思っていた矢先だったということもあります。

自分で気づいてやろうとしていたことを先に先生に言われて腹が立った。

それだけのことでした。

ただ、やろうとしていていても、やっていなかったらやっていないのと同じ。

結果的に先生の話をきっかけに、私は時間が許す限りテスト勉強しようと決めました。

はじめはなかなか集中できず大苦戦。

勉強の邪魔になるものを視界に入らないようにしたり、テストの点数が良い友達からどんな勉強しているかを聞いたりしながら、勉強中心の生活にシフトしていけるように試行錯誤していきました。

全科目力を入れることは難しかったものの、結果として全科目10点~30点UPに成功!

特に、理数系が苦手でよくても半分取れればよい方だったので、数学で80点台とか奇跡でした。

文系科目は90点台が増え、素直に嬉しかったです。

「やればできる」

確かにその通りでした。

「やらないとできない」

あたり前のことでした。

私は要領を得ればサクサクできるようになりますが、要領を得るまでに時間がかかるタイプです。

それは小学校からの学校生活で自覚したこと。

クラスの中で同じタイミングで同じ説明を受けて、1回でできる人とできない人がいます。

私は必ず「できない人」でした。

ただ、何回か続けるうちにできるようになったので、いつしか「人の3倍以上やればできるようになる」と自覚しています。

高校に入ってから勉強しなくても平均くらいはできていたのは、高校の受験勉強の頑張り貯金があったから。

「そろそろ勉強しないと」と思い始めたのも、この頑張り貯金がもうなくなってきていることに自分で気づいていたからです。

「努力は必ず報われる」この言葉には賛否両論があります。

ただ私はこの言葉を信じています。

私の中で「努力」とは「諦めずにやり続けること」。

途中で寄り道をしたとしても、休んだとしても、半歩ずつの遅い前進だったとしても。

やり続けること。

そして、1度やめても再開する力が努力だとも思っています。

諦めないでやり続ければ結果として描く未来を生きていける!

私はそう信じています。

もちろん努力しても報われないことは山ほどあります。

でも努力していたことが他の何かに活かされることもありますし、何年後か、何十年後かに活かされることもあります。

自分で努力してきたことは、自分の中に経験として貯まっていき、必要な時に活かすことができるのです。

だからこそ、要領が悪くて1回でできなくても何度でもチャレンジをしてできるようになりたい。

自分が「これだ!」と決めたことをコツコツ頑張る癖がついたのはこの頃からかもしれません。

そんなことを思い出しながら、当時を振り返ってみました。

次回の「自分史シリーズ」では、高校時代の後半を振り返っていきます。

不定期更新になりますが、引き続きよろしくお願いいたします。


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2019年1月21日

最終更新:2022年5月19日

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宮治 有希乃Miyaji, Yukino

組織人事コンサルタント

2007年よりITベンチャー、人材ビジネス業界で人事労務・人材育成に携わり、現場の最前線で人材採用から社員育成・定着化、人事制度構築、キャリア支援などを経験したオールラウンダー。2018年10月に寄りそうコンサルタントグループ HR LABOを立ち上げ、独立。 現在は、組織人事及びキャリア領域で「組織の人間関係を読み解き、働きがいのある職場環境を整えること」に注力。多角的組織診断を活用した組織活性や採用・定着化、人材育成を中心に活動している。※支援企業:300社以上、対人支援:延べ7,200人以上の実績あり。

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